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2015/08/19

川上量生さん「残念ながら日本の教養の原点はジャンプ」

聞き手・高重治香2015年8月17日22時01分

http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20150817002777_comm.jpg
カドカワ・ドワンゴの川上量生社長

 KADOKAWA・DWANGO社長の川上量生さんに、「教養」について聞いた。

     ◇

――川上さんにとって、「教養」とは何ですか。

 教養とは、ある時代のあるクラスター(集団)の人たちにとって、
コミュニケーションをするのに最低限必要な共通言語ということではないでしょうか。

――たとえばどんなものでしょうか。

 いま日本のインテリに通じる教養って何でしょう。理想はともかく、現実は。
文学的な教養でいうと、たとえばみんなが分かるのは何ですか。村上春樹ですか。

――夏目漱石やシェークスピアでしょうか。

 夏目漱石やシェークスピアは、明らかに読まれていない。
村上春樹も知識人と呼ばれる人って意外と読んでいないんじゃないでしょうか。
ネットを見ていると、みんなが本当に知っていて、共通言語としてひねったことを言う時に使われているのは、
「ドラゴンボール」とか「北斗の拳」「ハンターハンター」、つまり「ジャンプ」ですよ。

 欧州中央銀行の会見でドラギ総裁に女性が襲いかかる事件が起きた時、
「女性の南斗水鳥拳にドラギ総裁が気功砲で応戦した」とネットやテレビで話題になった。
社会で何かが起きて気の利いた風刺をしようとした時に出てきたのが「北斗の拳」の例。知的な笑いを表現しようとしたら、その素材は「ジャンプ」になった。
昔の人の「オデッセイア」にあたるものは、今の日本人には「ドラゴンボール」ですよ。残念ながら日本のインテリの教養の原点は「ジャンプ」だというのは、現実として認めないといけない。

 その他の教養は、それぞれのクラスター内での教養です。
社会全体の教養にも、知識人全体の教養にもなっていない。

 人文・文学の世界で教養というのは、専門分野での教養だと思う。
それを「今の社会人が身につけるべきだ」、「すべての日本人が身につけるべきだ」といった瞬間に、疑問が出る。
誰もがやるべき教養があるのかというと、そんな教養は今のところない。
みんながそれぞれ「これが教養」といっているものしかない。
社会の中で共通になっていない以上、共通言語としての教養ではない。

 共通言語がないとレベルの高い議論ができません。
共通の教養像を日本社会に作らないといけないが、うまくいっていない。

■「初音ミクはニコ動が生み出した教養だ」

――何か新しいものを発想する時に教養を使うことがあると思いますか。

 共通言語としての教養はみんなが知っているものだから、そこからは同じアイデアしかでてこない。
ただ、各ジャンルの中だけで必要な教養を、複数のジャンルにわたって知っていれば、
誰も出せないアイデアが出せる可能性は高いと思う。
二個も三個も四個も五個もジャンルをまたがって知ることが、競争力を生むと思う。「自分だけの教養」になる。

――ニコニコ動画からも教養が生まれるでしょうか。

 ボーカロイドの初音ミクは、ニコ動を使っている人はほとんどが知っているから、ニコ動が生み出した教養だと思う。
政治も大相撲も将棋も、ニコ動の中でみんなが知っているものになり、教養として再生された。
みんなの中で身近な共通知識にした。
シェークスピアなら、ディズニーがリメイクして初めて現代の教養になるんです。

――シェークスピアは「大学で教える必要がない」とよくやり玉に挙げられます。

 教養の存在意義は、共通言語となってみんなが使っていることだと思う。
シェークスピアを研究するなら、共通の知識としてみんなが使えないといけない。
シェークスピアだけをやっているのでは不十分で、広がりが大切だった。
その教養としての広がりが少なかったんだと思う。

 学問はいくらでも掘れる、専門的になれる。でも学問は、再利用できるかが一番重要。
得た知識を他のところで活用するのが学問の役割だと思う。
そういう応用ができる余地が少ないものは、教養としての教育の本流からははずれても仕方ない。

 文学は今の社会とリンクしていないとやる意味がない。
シェークスピアを読んで本当に理解しようと思ったら、あの時代のヨーロッパの風俗、考え方を理解しないといけない。
それは考古学とまではいわないけれど、教養とは言えないと思う。
そもそも誰も読んでないものは共通言語にならない。
その意味では、シェークスピアのうんちくを語るのは、年間千部しか売れない漫画の作者を「これはいい」と言っても聞いてもらえないのとたいして変わらない。

 人文系の学部の縮小の件で批判が出ています。
人文が必要なのは誰も否定しないだろうが、現実に大学で何を研究して教えているかを考えた時に、
ちょっと効率が悪いと思う人は多くいて、その疑問は正しいんじゃないでしょうか。文系の人も謙虚に受け止めた方がいい。

――効率とはどういうことでしょうか。

 哲学も文学も、昔は人間が頭の中でこねくり回すしかなかったが、今は人工知能や情報処理によって、基本的なことは解析できるようになった。
現代の哲学は数学だしプログラミングだし、脳科学や認知科学だ。
昔からの蓄積と新しい技術の接合を研究するのが世界的な人文の流れだと思う。
文系もどんどん情報の学問に変わらなくてはいけないが、みんな数学ができない。コンピューターが使えない。

――文学も、人物の心情や時代背景のデータが大量にあれば解析できるのでしょうか。

 解析できますよね。グーグルの人工知能が絵を描く時代です。
文学的、芸術的と思われた人間の行動そのものが、情報処理的に解釈可能な時代になっている。
昔からのやり方でやっている人たちが自分たちの領域を守ろうとしているのは学問としてどうか思う。
人工知能、情報処理の観点から人文知を再構成して考えるべきだ。
それをやる人が日本にいないんだから、つらい扱いを社会的に受けるのは当然です。

http://www.asahi.com/articles/ASH8F5F8BH8FUCVL00D.html









人は記憶型と思考型に大別できる

なんだかな~
二流知識人って感じだな
出だしは良かったんだが途中から教養が工場の生産物に変わってやんの


ネットのないころはジャンプしか読んでないようなバカはそもそもクラスターにすら参加できなかった
ネットによって教養の垣根が取り払われ、本来なら門前払いのはずのジャンプしか共通言語のないバカが
クラスターまで入り込んだてことだろう

一言で言えば「悪貨は良貨を駆逐する」ってことだよ


そもそも一般的に「教養」ってのはあくまで勉強して獲得するものであって、勉強しなくてもみんなが持ってる
「ある時代のあるクラスター(集団)の人たちにとって、コミュニケーションをするのに最低限必要な共通言語」
のことじゃないから


まあ最初に「川上さんにとって」教養とは何かを聞かれてるからあくまで自分にとっての定義を答えたんだろうけど、
その自分にとっての定義と一般的な「教養」の概念を混同したまま論を進めてるからおかしなことになってるんだな


というか、この人の言う「教養」は多義的すぎて議論に使えない
コミュニケーションツールという意味(ジャンプやミク)と
ジャンル依存の常識という意味(「各ジャンルの中だけで必要な教養」)と


専門研究のための道具的知識(数学を学んで自分で数理モデル化したい)とが
ぐちゃぐちゃに混ざって使われている

そこで適切な語句かどうかを自己検証するのが教養なんだけどなあ
ぱんきょーで大量の概念を詰め込んで
その使い分けをゼミで叩き込まれるし

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